朝涼

086:翠

 顔を上げ、顔面で受ける雨は優しい。痛みのない柔らかな雨粒は矢島の全身をゆっくりと濡らしていく。
 捜査中、傘が差せずにずぶ濡れになることはよくあることだが、東京の街中とは雨の種類が違うように感じた。
 四方を木が囲い、静かな空間。警察官になってから旅行とは無縁で、ずっとビルの森に囲まれていたため、こうして自然の中にいると少しだけ落ち着かなかったが、雨粒に晒され続けているうちに少しずつ落ち着いてきた。
 瞼を上げると、烟る空気。
 深呼吸をすると水分が多いためか、肺の中が重たく感じるが、嫌いな感覚でないと感じた。
「──……」
 両足を開き、そのまま頭の中でカウントをしながら調息。二十を数えたところで腰を落としながら両腕を構える。
 五歳からやっている空手の基本動作は、身に沁みている。考えなくとも動けるからこそ、基本動作はあえて考えてひとつずつを確実にこなしていく。突きと蹴りを交互に。一連の動作をワンセット行えば五分ほど。これくらいで汗をかくことも、息が切れることもないが、空手の基本動作だからこそ、行うことに意味がある。
 最後に大きく息を吐いてから構えを解くと同時に、バサ、と音がして視界が暗くなった。 
「せめて中でやれ」
 視界を遮ったものを手に取ると、ふかふかのタオルだった。触れると随分と温かく感じるということは、それだけ身体が冷えているということでもあるため、ありがたく頭から被った。タオルの隙間から視線を向けると無表情のまま、同じように濡れて立っている斉藤の姿があった。
「やりたくなったんだよ。あんたも一緒にやるか?」
「……明日晴れたらな」
 お互いに、身体を動かすこと自体は嫌いではないし、身体を鍛えることは職務上の義務でもある。……斉藤は別にその必要もないのにどこでどう鍛えているのか矢島よりもウェイトがある。現場の警察官として少々悔しいのは、矢島だけの秘密だ。
「捜査中とか、街ん中で濡れるのは最悪だけど、不思議と自然の中で濡れるのはあんま気になんねぇな」
「一緒だろ」
 濡れて落ちてきた前髪をかきあげながら、斉藤が唇を曲げる。
 以前も思ったが、美形は濡れても美形のままだ。崩れない造形というのもすごいものだ。
「濡れるの嫌なら出てくんなよ。別に頼んでねえし」
「……」
 そう言うと、斉藤は矢島を思い切り睨みつけてきた。何なんだ。
 

翠雨