朝涼

03:指先

「すごい音しましたけど」
「何でもねえ」
 梶と、M&Aの部下が一緒に去っていく気配を、神谷は顔を覆ったまま見送った。エレベーターに二人が乗ってしまえば、もうお互いの気配は遠い。
「は……」
 完璧に、ここがどこか頭から抜けていた。
 梶に全ての意識が集中していて、あそこでノックされていなかったら確実にあれ以上を求めていた。理性なんて一欠片もなくて、本能だけで動くところだった。
 ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、ずるずると身体を落として床に座り込んだ。
 目の前には、ずれた机と椅子。驚きとっさに神谷が梶を突き飛ばしてしまったため、ぐちゃぐちゃになってしまった。片付けて自分も仕事に戻らないと、と考えながらも、身体が動かない。
「……危ね」
 確かに久しぶりだったけれど、それだけで自分があんなになるとは、思いもよらなかった。寝ている梶を見ている時はそれはそれで満足だったし、同時に物足りなさも感じたものだが、見ているだけ、でそれ以上を望まなかったというのに。

 梶が起きて、同じ感情を返され、口付けられたらもうそこから、他のことが全て頭の中から消えた。
 間近にある梶の気配と体温、匂い、抱きしめられる腕の強さ、重なった胸から来る鼓動。全身が梶以外を排除した。

 まだ、梶の気配の残滓が残っている。
 それをもっと感じたくなり、さきほど口付けられ、強い力で握られた左手を自分の唇に当てた。残る体温と気配は神谷のものと混じり合わず、それが嬉しい。
「やばいか」
 会社でこれだったということは、週末はもっと酷いことになるかもしれない。何せ、プライベートの空間に場を移すことになり、今回のように中断が入ることは稀だろう。
 ……入っても、離すのは無理だろうな。
 自分の性格と欲を理解しているため、緊急の連絡が入っても手放せないだろう。入らないことを今から祈るばかりだ。
 無理するなと言いながら、けれど期待してしまう。
 梶に求められること、梶を求めてもいいということ。そのことが嬉しく、心が浮き立つ。
 現金だなと自分に苦笑しながら、もう一度梶の気配の残滓が残る指先に口付けた。